心の治療中

真の問題は何かを見つめるための覚書

気づきは自分の中に

私は物心ついたころから、将来のことがずっとずっと不安でした。

 

安心したくて、これで大丈夫という答えがほしくて彷徨い、20代前半の時に心の師匠(カウンセラー)に出会いました。

 

私の認識の中では、心の師匠はとてもとてもすごい人で、それまでの人生で見たことがないくらい努力家で、何でも知っているように見えて、でも一方で、子供のように無邪気で果てしなく自由で遊びがあって、私にとっては魔法使いのような方です。

 

その方と一緒にいれば、その方だったら答えに導いてくれるかも、私を変えてくれるかも、若い私の心の中にはそんな理不尽で無謀な期待が溢れ返っていたと思います。

 

幸いなことに、その方はとてもとても誠実な方で、そんなものはないよ、自分で魚の捕り方を覚えないとねと真摯に私に向き合い続けてくださいました。

 

そして、私の自我的には不幸なことに、ほしい目先の答えや自我的な安心感は得られませんでした。

 

(心の師匠の誠実さには頭が上がりませんし、答えを与えず捕り方を掴ませる姿勢には本当に感謝していて、私自身もそうありたいと思っています。)

 

私が理不尽な怒りを一度ならず何度もぶつけて関係性を破壊してしまったにも関わらず、おそらく今も真摯に向き合ってくださっていると思います。

 

怒りで関係性を破壊してしまったことと心の師匠の病が重なり、何ヶ月もお会いできずにいますが、次に会う時には必ず私は自分が選択してきてしまったパターンや自分が行って破壊したり傷つけたりしてきた言動に責任をとるという気持ちで、今、自分にできる限りでですが真剣に心と向き合っています。

 

心の師匠から、外側から伝えることには意味がない、必要なのは気づきの一瞬だけ(1秒でいい)としばしば言われてきたのですが、師匠から離れて心と向き合う過程で本当にそうだなと何度も感じています。

 

多くの時間(法外な時間)とあらゆる言葉を尽くしていっぱいいっぱい伝えていただいてきましたが、それが自分の中で気づきとして起こらないと、自分で答えに気づかないと、本当にそうだ!と深く自らを省みないと、変容は起こらないし苦しみから脱せないのだという絶望を感じています。

 

自分が変われないことや不幸であることをどこかで心の師匠のせいにしたり、依存して頼りきりで変わろうとしなかったということを自分に対して認めざるを得ません。

 

私自身の言動で破壊したこともですが、そのように時間を使ってしまっていたことも、師匠に対して本当に申し訳なく思っています。

 

絶望しきっている今だからこそ、淡々と、かつ真剣に自分自身の心をパターンを見るということが起こっています。

 

心の師匠と連絡をとると、私はいつもふっと甘えが出て、無意識に安心してゆるんでしまい、外側の人も状況も本当は私を助けられなくて自分でやるしかないんだよということをするりと忘れてしまいます。

 

今もちょっぴりそんな感じで、この数日は忙しかったことを理由に、怒りのパターンを見ることを疎かにしてしまい、積もってきた・・・となっています。

 

この無意識に安心して自分の努力をやめそうになってしまうというのは、師匠を頼りきって依存している、何かそうした確固たる対象がないと不安(逆にそれがあれば安心)というパターンで、どこまでいっても安心できないな、なんとか抜け出したいなと考えています。

 

心の師匠からの、自由になってる姿を見れるのを楽しみにしています!という言葉を励みに、そしても今も修行に学びに真摯にされている姿を励みに、私も毎日毎瞬を大事に生ききらなければと思います。

 

追記:

この1か月ほど、特に職場での人や状況に対する怒りのパターンや、いつ何回起こったかを観察するようにしています。

 

そして、怒りに任せそうになるのを何度も少しずつ選択を変えることができて、その度に目から鱗な感覚で、他者や状況の中に恐れという幻想を見ていたということに気づく連続です。

 

でも、ひとつ克服できていない(その状況が起こるときに怒りのままにならないでいられるか全く自信がない)ことがあります。

 

それは、自分が言ったり考えたりすることに対して否定されたと感じてしまう時や、何かの注意を受ける時です。

 

そこはどうしたらいいのかなと取り組み中です。