心の治療中

真の問題は何かを見つめるための覚書

不安な中で

この3日間ほど、小さな苛々と漠然とした不安が居座っていてすっきりしない気持ちです。

 

外側の原因を考えると、排卵日をすぎて月経に向かってPMS期、仕事で席替えが近くて緊張、ウイルスの影響で在宅勤務の可能性が出てきたこと、両親との関係性で考えさせられることが続いていること、などなど。

 

心の内面を見つめていくことが大事と考えていますが、時には外側から働きかける(身体がやわらかいときには心もやわらかく、身体が固いときには心もガチガチに固まります)ことも有効なので、今日はアロマオイルのマッサージを受けてきました。

 

心地よく感じた香りは、シャクナゲとプリムローズとカモミール

 

落ち着いてはいるのだけれど、奥底の忘れかけて沈んで固まっていたものがあったようで、緩んだことで久しぶりの頭痛と押込めていた不安が溢れ出てきた感じがしています。

 

昨日も今日も、この数週間収まっていた過食衝動が起こっています。

 

漠然としたこの不安や孤独というものを紛らわせるために何かと一体化したい、一体化すれば安心できるという錯覚です。

 

この数週間で、本当は食というものにさほど執着がなくてお腹をはちきれるまで満たしたいわけではないという感覚を取り戻しつつあり、衝動で食べたいと感じているチョコレートやラーメンやインスタント食品やスナック菓子を本当に食べたいの?と立ち止まって、口に入れず、食べてしまった後の心も身体も辛い不快感を味わうことなく済みました。

 

ちょっと進歩です。

 

怒りでも過食衝動でも、起こっている錯覚を見抜いていくこと(知覚を疑い、根柢の原因を見ること)、何度も何度も心の筋トレをして習慣にしていくこと、なのだと思います。

 

長年そばにいてくださった心の師匠も間近でそうした姿を見せてくださっていました。

 

セッションの中ではその陰なる苦労というのは決して出されませんが、カウンセラーにはなるものでなくどんな時でもカウンセラーであること、見えない水面下で果てしない努力をして豊かにしておかなければいけないよと言われたことを思い出します。

 

今こうして振り返ると、自分を責める意味ではなく、私は努力も覚悟も足りなかったと思います。

 

今、世界的なウイルスの影響で日々刻々と世界も取り巻く環境・状況も変化し、予測不能でコントロールできるものなど本当はないという事実が目に見える形で見えていて、きっとこれまで変えられなかったもの、大事だったり必要だと思い込んでいた信念や概念が崩壊し、手放すときが訪れている気がしています。

 

それは私自身の中にもおそらく同じように起こっています。

 

このような中で、私は改めて何よりも心の平安を選択したい、どんなものを見聞きしても自分の投影として認めて錯覚を取り消していきたいと強く強く願っています。

 

心のお掃除はこまめに

心の師匠のそのまた師匠は、早朝、鬼のような形相で毎日毎日必ず雑草取りをされていたそうです。

 

毎日積もる心の埃を祓い清めるために。

 

雑草は刈り取っても刈り取ってもすぐにまた生えてきます。

 

その度にまた刈り取っていく。

 

心の埃も同じこと。

 

心の埃(怒り、鬱々、思い通りにならないことだらけ)は消えることはなく流れ続けてくるものだけれども、流れてきたのなら選択しない、何度でも何度でも刈り取ることを習慣に。

 

今日はそんな師匠の話を思い出しています。

 

私の理不尽な怒りによる関係性の破壊と、心の師匠の病が重なり、こんなに何ヶ月もお会いしなかったことは初めてですが、逆にこの期間が心や自分がやってしまう怒りのパターンというものに真剣に向き合うということをももたらしてくれているようです。

 

でも、ふとこんな話を思い出したのも、この数日の私の怠慢が重なってきたからです。

 

会社員の仕事が忙しすぎて、心を振り返る(立ち止まる)ことをせずに、流し流しにしていたら、小さな苛立ちや怒りがポコポコと溢れ返り始め、これはやばいぞ!!と感じる一日でした。

 

今は怒りのパターンに気づいてやめたいと切に願い、より観察しようとしているからこれまで以上にささやかな波立ちでも気づけるのだと思います。

 

毎日の心のお掃除、祓い清め、徹底します。

 

気づきは自分の中に

私は物心ついたころから、将来のことがずっとずっと不安でした。

 

安心したくて、これで大丈夫という答えがほしくて彷徨い、20代前半の時に心の師匠(カウンセラー)に出会いました。

 

私の認識の中では、心の師匠はとてもとてもすごい人で、それまでの人生で見たことがないくらい努力家で、何でも知っているように見えて、でも一方で、子供のように無邪気で果てしなく自由で遊びがあって、私にとっては魔法使いのような方です。

 

その方と一緒にいれば、その方だったら答えに導いてくれるかも、私を変えてくれるかも、若い私の心の中にはそんな理不尽で無謀な期待が溢れ返っていたと思います。

 

幸いなことに、その方はとてもとても誠実な方で、そんなものはないよ、自分で魚の捕り方を覚えないとねと真摯に私に向き合い続けてくださいました。

 

そして、私の自我的には不幸なことに、ほしい目先の答えや自我的な安心感は得られませんでした。

 

(心の師匠の誠実さには頭が上がりませんし、答えを与えず捕り方を掴ませる姿勢には本当に感謝していて、私自身もそうありたいと思っています。)

 

私が理不尽な怒りを一度ならず何度もぶつけて関係性を破壊してしまったにも関わらず、おそらく今も真摯に向き合ってくださっていると思います。

 

怒りで関係性を破壊してしまったことと心の師匠の病が重なり、何ヶ月もお会いできずにいますが、次に会う時には必ず私は自分が選択してきてしまったパターンや自分が行って破壊したり傷つけたりしてきた言動に責任をとるという気持ちで、今、自分にできる限りでですが真剣に心と向き合っています。

 

心の師匠から、外側から伝えることには意味がない、必要なのは気づきの一瞬だけ(1秒でいい)としばしば言われてきたのですが、師匠から離れて心と向き合う過程で本当にそうだなと何度も感じています。

 

多くの時間(法外な時間)とあらゆる言葉を尽くしていっぱいいっぱい伝えていただいてきましたが、それが自分の中で気づきとして起こらないと、自分で答えに気づかないと、本当にそうだ!と深く自らを省みないと、変容は起こらないし苦しみから脱せないのだという絶望を感じています。

 

自分が変われないことや不幸であることをどこかで心の師匠のせいにしたり、依存して頼りきりで変わろうとしなかったということを自分に対して認めざるを得ません。

 

私自身の言動で破壊したこともですが、そのように時間を使ってしまっていたことも、師匠に対して本当に申し訳なく思っています。

 

絶望しきっている今だからこそ、淡々と、かつ真剣に自分自身の心をパターンを見るということが起こっています。

 

心の師匠と連絡をとると、私はいつもふっと甘えが出て、無意識に安心してゆるんでしまい、外側の人も状況も本当は私を助けられなくて自分でやるしかないんだよということをするりと忘れてしまいます。

 

今もちょっぴりそんな感じで、この数日は忙しかったことを理由に、怒りのパターンを見ることを疎かにしてしまい、積もってきた・・・となっています。

 

この無意識に安心して自分の努力をやめそうになってしまうというのは、師匠を頼りきって依存している、何かそうした確固たる対象がないと不安(逆にそれがあれば安心)というパターンで、どこまでいっても安心できないな、なんとか抜け出したいなと考えています。

 

心の師匠からの、自由になってる姿を見れるのを楽しみにしています!という言葉を励みに、そしても今も修行に学びに真摯にされている姿を励みに、私も毎日毎瞬を大事に生ききらなければと思います。

 

追記:

この1か月ほど、特に職場での人や状況に対する怒りのパターンや、いつ何回起こったかを観察するようにしています。

 

そして、怒りに任せそうになるのを何度も少しずつ選択を変えることができて、その度に目から鱗な感覚で、他者や状況の中に恐れという幻想を見ていたということに気づく連続です。

 

でも、ひとつ克服できていない(その状況が起こるときに怒りのままにならないでいられるか全く自信がない)ことがあります。

 

それは、自分が言ったり考えたりすることに対して否定されたと感じてしまう時や、何かの注意を受ける時です。

 

そこはどうしたらいいのかなと取り組み中です。

イライラの日

本日は排卵日。

そして3連休明けで地獄のように忙しい日。

更に次から次に問題も勃発。

 

苛々や怒り爆発の危機日。

 

私の場合は、排卵から月経がくるまでがPMS期で、気持ちがジェットコースターになってしまいます。

 

現在は、漢方薬を常時服用、危険日に使用できる頓服の西洋薬(パニック障害にも使用されるもの)、更に、大嶋信頼さんの遺伝子コードを唱える(GNRH1の還元×7回)を外的なものとして試し中ですが、効果が出るにはまだまだ時間を要しそうです。

 

頓服薬を使用して気持ちのジェットコースターを抑え、その隙に自分の苛々や怒りのパターンに気づく・見ていくということに取り組んでいます。

 

怒りのパターンを見ていくと、根柢に不安があり、安心を得るために、怒りによって他者や状況をコントロールするということが起こっているように感じられます。

 

つまり、怒りの表明によってコントロールすることで安心が得られるという錯覚があり、それを選択し、瞬時に怒りを出してしまっているようです。

 

観察していると、怒りは瞬時に起こり、一歩タイミングが遅れて起こっていることに気づくという段階にいます。

 

仕事で、自分の仕事の一部をしてくださるスタッフがいるのですが、その中のお一人がいつも要点がずれて話すと時間がかかり、多忙極まりないときには話しかけられるとどうしても苛々してひどい態度をとってしまうことが多くなってしまいます。

 

今日もまさにそんな日で、でも、一瞬怒りの表明でコントロールしそうになりながらも、その怒りやイライラは本当?(バイロン・ケイティの問いかけ)と浮かび、怒りでコントロールしたいの?と浮かんできて、しゅっと抑えることができました。

 

そうすると、怒りで視野が狭くなっていて見えなくなっていたものが見えてきて、その方の一生懸命伝えようとか気遣おうとされている部分がふっと見えてきて、怒りでコントロールしなくてよかった、こうやってわだかまりなく終われるってあたたかいものだなと心の奥底から感じている自分がいました。

 

怒りや不満を表現して、仮にコントロールに成功しても、また失敗しても、ものすごく後味の悪い思いや恥ずかしい気持ちでほんとはいっぱいなんです。

 

私の場合は、怒りのパターンが発動される根柢の不安は、仕事においては、今日中に仕事が終わらないかもしれないという不安、こんな量絶対に無理という仕事から攻撃されている気持ち、仕事量がどんどん増えたら怖いというようなものが主なところです。

 

怒りを出してしまったときを振り返ったり、一つ一つの出来事をよく見ていくと、本当はその不安というものは的中することはなく、いつも大概は何とか収束していき(当日中に何とかならなくても必ず波は満ち引きがある)、不安は実態のないものだったことがわかります。

 

それでもその不安を信じ、怒りでコントロールすることで安心を得られるはずという信念を選択する限り、何度でも何度でも同じことの繰り返しです。

 

今日のことは小さな小さな出来事ですが、私にとっては光に思え、怒りを外に出してしまうパターンを少しずつでも選択しない、被害者意識からぬけでよう、そんな固い決意が心の中に湧きおこっています。

 

追記:

薬についての考察。

今日は朝から仕事が不安(3連休明けの多忙と問題まみれを予見していたため)で、西洋の頓服を飲もうか迷ったり、不安から頓服薬に手を伸ばしそうになりました。

私の体感だと、本当に半ばパニック状態の不安や怒りの興奮時は西洋薬が一時的にとても助けになる感じがしますが、本当は興奮がさほど行っていないけれども不安回避で飲んでしまったという時は副作用が半端なく出て辛い感じになる気がしています。

不安に溺れずに直観を信じること(その時に薬が必要か不要か)も大切だなと感じています。

衝動的な怒りの表現は破壊につながる

資格更新も兼ね、先日、アンガーマネジメントの研修に参加しました。

 

アンガーマネジメントとは直接関係がないのですが、講義の中で、印象に残ったことが二つありました。

 

一つは、怒りの性質として、怒りの表現によりすっきり感が得られるという意見がでたのですが、それは決してメリットではありませんと強めに講師から指摘が入ったことです。

 

怒りを(衝動的に)表現して自分はすっきり感を得られるかもしれませんが、怒りをぶつけられた方は傷つきますし、周りからの信頼も失ってしまいます。

 

怒りの表現をメリットだと体が覚えてしまうと、その快感を何度も繰り返すことにもなってしまいます。

 

この言葉は私にとっても耳の痛い言葉でした。

 

親子関係の問題を入口にカウンセリングを受け始めた頃、抑え込みすぎて気づくことさえもなかった感情や思いに気づいて認めていくという練習をしていました。

 

その過程で、母親に対しての怒りをもっていても罪悪感を持つ必要はないということや、人の性質として怒りの感情は誰しもが持っているということをカウンセラーと一緒に見て認めるという作業も行ってきたのですが、いつの間にか、自分の正当性を主張する手段と混同して怒りを表現するモンスターになってしまったように感じます。

 

身体中が震えるほどの怒りを感じたり怒ったとき、ある種の麻痺が起こり、頭の中に冷たくて心地よいものが流れゆく感覚を何度か感じたこともあり、怒りの表現が、自分が正しいということの証明手段だったり、何かをコントロールできるという手段になり得るという錯覚を起こし、成功体験として、怒りのサイクルはどんどん短くひどくなっていきました。

 

大切な人との関係性を破壊しきるまで、私の場合は抑えることができませんでしたし、その錯覚を疑ってみようとすることもできませんでした。

 

現在は、どんなに不測の事態が起こっても、どんなに自分が正しいように思えても、どこかで自分が物事や他者や自分に対して「こうあるべき」に陥っていないか、その怒りは本当かと知覚を疑うというトレーニングに本腰を入れています。

 

そのトレーニングを本当にしていきたいと心が突き動かされたのは、大切な関係性を破壊しきってしまった事態と、もうひとつは会社の所長の在り方を目の当たりにしているからです。

 

大手企業の所長で50人以上を抱えてともなると、イライラしたり、怒ってコントロールしたりというやり方の方が圧倒的に多いと思いますが、所長は決して怒りを出すことなく、根気強く一人一人に合わせた話をしながら指導していきます。

 

どんな話でも無下にせず、根気よく聞いています。

 

結果として、働く意欲が出てきたり、至らないところは直さなければと素直に受け入れたり、所長と面談した後の社員の顔が輝いていたりと、決して怒ることで人が動いているわけではないということ、怒らなくても伝わるということを肌で感じ、本当にこの怒りのパターンからは抜けたいと強く強く願っています。

 

この研修で強く指摘があった通り、一時的に怒りの表現で何かを変えたり主張が通ったりしても、怒りの表現や怒りでコントロールすることは、とてもとても損なこととお伝えしたいです。

 

怒りが湧くことは本能であり、怒りそのものはよくも悪くもありません。

 

また、一度湧いて形づくられたものをいくら否定しても無視してもどうしようもありません。 

 

湧いたものを成仏させるには外側へ向けた表現によってではなく、自分自身がその怒りに耳を傾けて認めてあげること、その怒りは本当はどんなことを伝えたいのかを紐解いて成仏させてあげることが必要なのです。

 

(次へつづく)

 

追記1:

とはいえ、怒りのエネルギーが収まらないことというのもあります。

そんなときは物やイメージを使って、怒りのエネルギーをぬくという方法を使ったりもします。

水風船を怒りに見立てて公園でひたすらぶつけたり、ロケットをイメージして怒りを飛ばしたり、ひたすら歩いたり、などなど。

 

追記2:

私は、不安感が強かったり、突発的怒りや逆にプチ鬱状態などで気持ちが安定しないことも多く、現在は漢方と西洋薬の頓服を一時的に使用しています。

気分変調は、仕事となればうまくコントロールしたり、支障なく仕事できますが、休日や退社後に何もできないというような後からの反動がひどかったりなのです。

その意味で、薬は筋弛緩作用もあり、上手に使えば嵐のような自分を頑張ってコントロールするよりも楽だなと感じる部分もありますが、ふらつきがひどかったり、長く飲むのは危険ということも感じています。

自分がどんな性質や特徴や生き辛さを抱えていても、その苦しみが足かせとならない、つまりは自由でいられることを模索していますし、そうしたことにつながるカウンセリングの場があるといいなと思っています。

刃の一言が指し示すもの

自分の中のおぞましいものを恐れずに誠実に見つめていこう、自分自身が行ってきた言動への責任をとっていこうという覚悟を定め、現在、知覚(感じていること、こうだと判断していること)に対して疑いを発するということを行っています。

 

入り口は、一番扱いやすい(気づくことが容易な)激しい怒りを感じたことを題材にしながらです。

 

どれほどコントロールしたいとか変えたいと思っても、起こっている状況も他者も私たちには変えることができません。

 

私たちが何とかできるもの、責任の範囲が及ぶものは、自分自身が選択している物事への見方と心の平安だけです。

 

知覚に対して疑いを発するということは、自分が選択している信念やビリーフに気づくこと、責任を自分に戻して被害者意識から脱していくことに役立ちます。

 

私は長年、親子関係の問題、特に母娘の関係性に頭を悩ませてきました。

 

カウンセリングを通して、その母娘関係において母が毒親であること、母に対して怒ってもいいんだということも何度もカウンセラーと一緒に見て認めてきました。

 

罪悪感の方が大きすぎて(母は娘にこんなに一生懸命やってくれている、母は自分を犠牲にして娘を優先してくれた、こんなに取り柄のない娘でごめんなさい等)、残っている課題もたくさんあります。

 

一方で、本当に母が悪いのか、母が変わればよかったのかと突き詰めていくと、そのまた上の世代においてもおそらく娘であった母としてはそうなるしか致し方がない部分もあり、誰かを責めることはできない、その人(母)がその時にそうであったのはそうしかできなかったからだということもまた一つの事実だと考えています。

 

話が逸れてしまいましたが、結局のところ、誰かを責めたり誰かが変わったりしたところで本当の本当は自分の中に平安は訪れないのだな、解放されるべきは自分の選択している信念やビリーフだけからなのだな、というのが私が選択している考えです。

 

そのためには、どれほど愚痴や不満を言ってもいいけれども、自分自身が自分の心の平安に責任をもつこと、何を感じていたとしても自分の選択として一旦認めることがスタートとなります。

 

私は、自分の人生に、仕事や結婚のこと、何もできない自分のこと、両親との関係性のあらゆることに不安や不満を持っています。

 

半年前、ぐるぐると終わりなきその不安と不満の迷路をぶつけ続けたとき、カウンセラーから、「それならやめたらいい(具体的には仕事のことについて)」と言われた一言が私の怒りを喚起し、ずっとしこりのようにひっかかっていました。

 

でも、今改めて自分が怒ってしまうときをひとつずつ見つめていくと、カウンセラーでもあり心の師匠でもあるその人からの一言は、「他者や状況のせいにするのでなく、自分自身の心の平安に責任を持ちなさい。そこからしか何も始まらないよ。」というものすごく鋭い言葉だったのだと深く深く突き刺さっています。

 

自分の選択に責任をもつことへ立ち返らせる機会となりうる言葉を、当初、しかと受け取れず、怒りをぶつけて関係性を破壊してしまったこと、とても悔やまれます。

 

感服の思いと、今からでもその言葉が指してくれるものと向き合いたいという思いでいっぱいです。

人として絶対的にダメなこと

この半年強は特に、突発的にわいてくる怒りを表に出してしまうということは普通ではないということを何度も振り返る機会がありました。

 

一つは信頼しているカウンセラー(心の師匠)に理不尽な怒りをぶつけて関係性を破壊してしまったこと。

 

もう一つは、今年度から着任した部署の所長が、仕事ができるできない以前に何よりも空気と穏やかさ(落ち着き)を重要視しているということ。

 

私にとって、おそらく怒りを出すということは、唯一の意思表示であり、その意思表示をすることで他者や状況を変えられる、つまりコントロールして安心感を得られるという認識なのではないかと推察しています。

 

どんな時に怒りがわき、何がトリガーになっているか、そこにも自分が繰り返してしまうパターンが隠れているので心を見つめていくことが必要となりますが、今は自分の過ちを誠実に見つめる勇気が出ず、少し逃げ回っています。

 

カウンセラーから、この怒りとコントロールのパターンについて、家族関係の中で母親が怒りによってコントロールするということの成功を目の当たりにしているため、私自身の中でも成功体験としての認識が働いているのではないかという指摘を幾度となく受けています。

 

それが持って生まれたものなのか、成長の過程で築かれたものかはわかりませんが、母は気に入らないこと、自分の予定が狂うこと、家族(私や父)が母の思うとおりにならないと、声のボリュームが一気に上がって罵倒となり、怒り狂います。

 

あるいは、怒りを出せない場では、不機嫌になり、自分の怒りや不機嫌さを理解しなさい、理解するのが当然だと相手に押し付けてコントロールしていきます。

 

そして、その後、何事もなかったかのようにケロッとしていることも多くあり、周りは振り回されますし、母のことがよくわからなくて安心していられません。

 

私は母と一緒に住んでいた頃、その怒りの時間や声の大きさが本当に嫌で逃げ出したくて仕方がなかったのですが、いつの間にかそれが普通になってしまっていたのでしょう。

 

自分の衝動的な怒りの際の振る舞いを振り返ると、嫌だと思っていたはずなのに、いつもいつも色んなことに不満を感じ、不機嫌になり、何らかの形で外側の他者に怒りをぶつけてしまってきました。

 

怒りを表に出すことが普通になってしまっていました。

 

自分の心の中のどこかで、その知覚が正しいか正しくないかはさておき、理不尽だと感じたり、不利益を被っていると自動的に判断した瞬間に、怒りが沸点までいきますし、自分の正当性を示さなくては、示すことは生存に必要なこと、それが当然となっている自分にようやく気づき、絶望を感じています。

 

30歳も過ぎ、こんな年齢になってようやく、怒りを他者に表現してしまうことは如何なる時でも社会人としてあり得ないことであり、一度それをやってしまうと信頼は失墜して回復は難しいということを身をもってようやく学んでいます。

 

会社の中で、現在の所長が最も大切にしていること、体現していることが、空気を壊さないこと、どんな不測の事態が起こっても穏やかさの中にいること(いるように振舞うこと)であり、それを見るにつけ、人間は穏やかさや安定性のある人に安心感や信頼を覚えるものなのだ・・・と苦しい気持ちでいっぱいです。

 

※怒りを感じてはいけないということではありません。湧いてくるものや起こっている感情は抑え込むのでなく認めて解放していくことは必要ですが、それを表に表現してよいかどうかというのは別問題ということです。表に表現することを止められない、コントロールできないことに問題を感じています。

 

感情の乱れが激しく、怒りを力ずくや思考でコントロールしようと思っても失敗に終わるばかり・・・。

 

唯一、頓服の薬で、怒りが頂点→ちょっとした刺激で再び頂点→更に別の刺激で頂点という短時間での最悪なループは今のところ免れていますが、自分が選択しているパターン、ビリーフというものを見つめない限りはここから抜け出すことはできません。

 

パターンやビリーフは、両親との関係性で築かれたり、両親のものを知らず知らずに受け継いでしまっていたりします。

 

そこを見つめるしか今の私には手段がないようです。

一人旅のすすめ

今日は旅のことを書いてみようと思います。

 

今も旅の真最中だから・・・。

 

心の師匠と出会った頃、勧められたことのひとつに一人旅があります。

 

とにかく言われたことはやってみようという若さゆえの素直さから、勇気を出して旅に出ました。

 

そんなに遠くに何泊も一人でお出かけすることへの不安、両親からどう思われるかを考えるときのキュッと胸を締め付けられるような不快感を今も覚えています。

 

初めての旅先は、長野県の山奥の戸隠村

 

見たこともないほどの雪の量、一面の幻想的な雪景色。

 

最初に一人旅をした地はやはり思い出深く、人生に、自分の気持ちに躓くたびに今も訪れます。

 

昼間でも雲が厚く薄暗い中で、しんしんと降る雪、その静けさに静かに静かに感動が訪れていました。

 

両親との旅行では、計画をしっかり立て、観光地を無駄なく回り、お金をかけた以上意義のある旅(成功)にしなければならないという雰囲気があります。

 

そんな旅行しかしたことがなかったのに、どこへも行かず、宿でぼーっと窓の外のぽっぽっと積もりゆく雪をただ眺めている。

 

何をするよりもとてもとても贅沢な時間で嬉しくなったことを覚えています。

 

心の師匠の意図としては、一人旅をすることで、家族から物理的に離れて間(ま)が訪れ気づきの機会がもたらされること、両親が知らない世界や感覚をもてること、そのためだったのではないかと今は感じています。

 

初めての一人旅で感じたことを両親は何一つ知りません。

 

この戸隠への旅を皮切りに、神社と自然と温泉を起点として、年間、相当数の旅に出るようになりましたが、それぞれの旅でふと感じることは誰かや何かに影響されたものではなく、本当に自分の中からわきあがってくるものであり、そうしたものは印象深く、記録になどしなくても明確に蘇ります。

 

そうしたひとつひとつが私にとってとても大切なもののようなのです。

 

だからつい旅に出たくなってしまうのかもしれません。

 

家族関係や親子関係の問題、それは他者との関係性や仕事での問題などにも密接に関わりますが、これまでのやり方をいきなり変えたり、振り返ることは難しいこともあります。

 

特にご両親と気づかないうちに精神的癒着状態に陥っていたり、母親との精神的へその緒が切れていないときには特に。

 

(上記は言葉がきつくなっていますが、それが心地よいのであればいいのですし、分離することに罪悪感があるのも当然です。私自身も罪悪感には自分自身に手を焼いています。)

 

そんなときには、物理的距離を一旦とる、つまり緊急避難することで俯瞰するための間を持つという手立てもあると私は考えているのですが、一人暮らしが難しければ、一人旅から始めることを私は推奨したいです。

 

私は、アダルトチルドレンであり、認知の歪みも大きく、予測不能なことは怖く、また白黒思考でもあります。

 

そんな人間が旅に行くとなると、しっかり準備と計画を立てて不安を少しでも減らして・・・となってしまいます。

 

でも私は旅に関しては、普段の生活でやっていること(計画をがちがちに立てる、成功失敗と判断する、意義や意味を求めて無目的を楽しめない)だけはやめよう、旅という非日常を使って楽しみながらその練習をしようということだけは意図しています。

 

無目的な時間を自分を裁くことなく味わうこと、観光よりもその土地に住むようにゆっくりと過ごしてみる贅沢、気づけばこれがとても好きになっていたり、旅のスタイルにいつの間にかなっていました。

 

成功失敗という判断から自由であること、無目的な中や計画を立てない予測不能な中でも安心していられること、これは旅に限った話ではないと思うのです。

薬の力も時には必要

突然爆発してしまう怒りや、月経前の消えたい願望と鬱状態と止まらない涙や怒りについて、カウンセラーより何ヶ月、いやあるいは何年も心のアプローチだけではなく、薬で外側からもアプローチするよう言われ続けてきました。

 

発達障害の可能性も示唆され(これについては勇気が出ず検査を受けていませんが、両親の特徴的な部分を鑑みると遺伝的に可能性大です)、コンサータを試した人が、世界がこんなにも穏やかなんてと表現しているという話も聞いていました。

 

それでも、なかなか自分の普通でない部分というのを認めることが難しく、自分は大丈夫、自分は普通、爆発してしまったのはちょっと失敗してしまっただけで次は大丈夫、と病院への足は遠のくばかりでした。

 

カウンセラーからよく伝えられていたのは、心の面であれ身体の面であれ不調が表れているのは必要があってなのだよ、私たちの都合で邪魔だと邪険にするのではなく、表れていることを許しなさい、起こることを起こるがままにしておきなさい、そして、その奥にある原因を見つめなさい(お手紙を読み解きなさい)ということです。

 

根本的な原因(ここではあらゆることが心/信念体系が作りだしているという考え方を採用しています)を紐解いていかない限り、いくら病気が治っても何度でも同じことを繰り返すし、何度でも同じ問題は起こります。

 

それでは、どうして薬の力も借りることが時に有効なのでしょうか。

 

薬は、一時的にでも症状から解放され、心を見つめて真の原因へのアプローチに取り組むゆとり、間(ま)ができる助けの一つとなるからです。

 

燃え盛る火事の中では身動きできません。

一旦は火の粉を消すことが最優先となります。

 

「心を見ていくこと」は脅えて心身共に硬直した状態では難しく、安心してくつろいだ時に初めて物事を自分の狭量な解釈から離れて俯瞰できます。

 

もう一つは、薬で高ぶった感情が静まったり、鬱状態から少しでも浮上できたりすることは、社会生活を営む手段として非常に役に立ちます。

 

例えば私の場合は、些細なことから怒りが頂点にいって抑えられなかったり、逆に鬱状態で動けなかったりということがしばしば起こる問題です。

 

繰り返される怒りやうつ状態でどうしても出社できなくて突発的休みを繰り返すことは会社においてもプライベートにおいても信頼を失います。

 

一度失ったものを回復することはとてもとても難しいことです。

 

私は何度も自暴自棄に陥り、それなら一人きりで生きていくからいいと強がってきましたが、自分が寂しいからということよりも、何度も何度もこんな自分に手を差し伸べ続けてくれた人たち、一緒にいたくなくても仕方なく会社で共に働いてくれている人たちなどに対して、不快な思いをさせたり、関係性を断絶させたり、信頼を失ってしまったことがとてもとても苦しく感じています。

 

それを回避するための緊急手段として、例え根本的解決でなくても、もっと早く病院を色々探せばよかったと今は思っています。

 

このブログに出てくるカウンセラーとの間において、人間としての信頼関係を失ったとき、とにかく何とかしなければと思い、それでもそこから5ヶ月もかかってようやくよさそうな心療内科を訪れることができました。

 

心療内科と漢方専門の病院で、メインを漢方にしてもらい、その他に必要最低限で、興奮を抑えるときに1日2回までの依存性のない頓服を処方してもらって続けています。

 

私としては効果を期待していなかったのですが、不機嫌そうな日や怒りが弾けそうな時に緊急的に頓服を何度か服用してみて、怒りが頂点までいくのを何度も回避することで、例え怒りや感情の振れがあったとしても、振れ幅がなだらかになって上手にやり過ごせているということを感じています。

 

自分の努力だけで何とかしよう→何ともならず失敗の繰り返しでしたが、薬のお陰で驚くほど穏やかであれることが増えています。

 

ただ、これだけ効き目があるということはどこか脳に無理に働きかけていることでもありますし、副作用として飲んでしばらくはふらつくので、緊急手段としか考えていません。

 

この穏やかに過ごせている間(ま)を利用して、怒りの真の原因や、怒りによって何をしようとしているのかを見つめていきたいと思います。

 

私自身はとても病院が苦手なのですが、精神科・心療内科は的確に薬を出してもらうところ、カウンセリングは自分の心をじっくり見つめ、本来の自分を取り戻して自由に生きられるようになるための時間と、使い分けていくとよいのかなと考えています。

これまでのこと

私が理不尽な怒りをぶつけてしまったことでセッションが成立しなくなったこと、信頼を置いているカウンセラーが闘病で活動停止のため今は少し離れていますが、2012年1月~2019年8月まで、途切れることなくあるカウンセラーのセッションを受け続けてきました。

 

ここでは知っている人が見ることもないため、自分に正直にこれまでのことを振り返ってみたり、カウンセラーとのセッション内容、今抱えている問題や考察、本のことなど書くことで自分自身を見つめなおす時間をもてればと思っています。

 

私が葛藤を感じてきたのは、簡単にまとめてしまうと、家族関係(父・母・私)の問題、人間関係が続かなかったりうまくいかないこと、職場で仕事ができないように感じること、すべてに共通するのは自己否定や劣等感、といったところです。

 

この8年の中では、大きく振り返ってみると、

 

新入社員で仕事を始め、家族関係でのストレスと仕事のストレスでいっぱいいっぱいになってつぶれる。休職に至る。

この時期の仕事は自分の頭の中が整理整頓できず、闇雲に行い、業務知識は身につかなく、奇跡的に大きな問題を起こさずに済んだというひどい状態。

カウンセラーと会う前は体の不調は無意識に押し込めていて感じていなかったが、セッションを受けるほどに元々あった痛みが浮上し、常に頭痛や体の痛みを感じていた。

 

休職中、何か有意義なことをするでもなく、家族ともうまくいかずに家出状態で一人暮らしを開始。

孤独のドン底を味わいつつ、会社という空想上の魔物からひたすら逃げ続ける地獄の毎日。

会社が怖くて復帰を延期延期延期し、復帰できたのは1年9ヶ月後。

現在も同じ会社で居場所を作ってもらえていることには驚きと感謝。

恐れ(自分を脅かすもの)というのは本当は実態はないが、脅えて逃げるほどに形は強化されていくということを学ぶ。

 

復帰し、上司に恵まれ、使い物にならない私のペースに合わせた業務内容で、休みがちではあるものの徐々に職場環境に慣れていく。

毎日眠く、毎日体中が重く、感情は不安定で帰宅後はごはんを食べて寝るだけの生活。体重もどんどん膨張。まだ頭の回転も悪し。

身体の症状であれ問題であれ、起こることに抵抗しないということ、抵抗しないでいると問題というのは形が緩んでいくことを目の当たりにする。

この時期には、物理的に、鬱状態を抱えながらもうまく付き合って仕事の作業をこなすテクニック(例えば、単純作業を繰り返すことで落ち着きや落ち込みから脱出、嫌だと認識することに対して小さなハードルを設けて負担感を下げる等々)も自然と習得することとなりました。

 

休職後にお世話になった上司の転勤、その後、担当業務が東京に集約され、異動。

休職前よりは易しい業務であるものの、新たにできたチームは業務量や求められるスピードと正確性の面でもハード、キツイ女性の上司に当たり続ける、という地獄の毎日。

この時期、カウンセラーの助けもあり、感情や問題と自分を同一化しないこと、自分自身の選択に責任をとることを少しずつ少しずつ実践(現在も続く)。

恋愛にもチャレンジしようと、結婚相談所に登録したり、デートを重ねてみたりするも、長続きせず。他者との関係性に問題あり。

 

再び上司に恵まれ、その方の、どんなことが起こっても目の前の人にはその人なりの事情が何かあるかもしれないという姿勢で相手と話をしていく姿を目の当たりにし、物事や他者への自分の見方を疑ってみる、決めつけないでおくという心のトレーニングを実践する勇気をもらう(現在も心のトレーニングは継続中)。

この時期は、上司が些細なことで笑えるポイントを見つけてくれて緩み、管理業務も入ってくる中でも頑張れたり、自分にできることを出し切っていくことを考えたり、無理とか仕事量の多さににつぶされるという自分の決めつけや感情を脇において淡々と進めていくことを体感として学ぶ。

 

現在は、来年度の異動先や部署内で担う仕事状況でどうなるかわからないが、自分は何もしていない社員・・・と思えてしまうほど、あまり仕事をしておらず、心を見つめることからも逃げていて、ある意味しんどい状況。

カウンセラー(心の師匠)の意図としては、永遠にぐるぐると回り続けてしまう私の愚痴・終わらない問題に対して心を見つめなさい、本当はどうありたいのか・どうしたら自由で心地よくあれるのか考えなさいということだったのではないかと思うのだが、「そんなにしたくないことだったらやめればいい」という言葉から追い詰められたように感じてしまい、更に歯車がおかしな方向へ回り始めてしまった。

今の私は、仕事での自分の在り方、本当の問題は何なのか、心の師匠は何を伝え続けてきてくれたのかということと向き合いたいと感じている。

 

ざっくりまとめると、今の私の認識としてはこんな変遷かなと捉えています。

 

誰の中にも例外なく存在する本来の輝きというものがあると私は信じています。

 

ただ、人生の中での様々な事情や自分を守るための手段が実は自分を不自由にし、その輝きはそうしたたくさんの雲で覆われていて、人は葛藤を感じたり、発作的にひどい人を演じることになったり、自由に生きられないのかもしれません。

 

今の私は、本来の輝きが誰の中にもあって、誰もが本当は心の面で自由であることができて、雲が祓われたときにときには輝きが溢れ出るしかないということを忘れかけてしまっていますが、それでも心の片隅で、それを切望している自分も強く感じています。

 

その雲をひとつひとつ払っていく力を養ったり、クライアントが本当は持っている力を取り戻して自由を取り戻していくための時間と空間をカウンセリングにより提供し、クライアントの本来の姿をひたすら信じて待ち続けてくださっているカウンセラー(心の師匠)には敬意の気持ちでいっぱいです。

 

心を見ること、自分自身への誠実さ(誤魔化して見ないようにする)から遠のいてしまっているのですが、文章として書いていくことでこの道にもう一度戻ってきたい、自由であることを諦めたくないと思います。

 

諦めることは自分への責任放棄。

 

無理せずに、それでも志をもって綴っていきます。