心の治療中

真の問題は何かを見つめるための覚書

人として絶対的にダメなこと

この半年強は特に、突発的にわいてくる怒りを表に出してしまうということは普通ではないということを何度も振り返る機会がありました。

 

一つは信頼しているカウンセラー(心の師匠)に理不尽な怒りをぶつけて関係性を破壊してしまったこと。

 

もう一つは、今年度から着任した部署の所長が、仕事ができるできない以前に何よりも空気と穏やかさ(落ち着き)を重要視しているということ。

 

私にとって、おそらく怒りを出すということは、唯一の意思表示であり、その意思表示をすることで他者や状況を変えられる、つまりコントロールして安心感を得られるという認識なのではないかと推察しています。

 

どんな時に怒りがわき、何がトリガーになっているか、そこにも自分が繰り返してしまうパターンが隠れているので心を見つめていくことが必要となりますが、今は自分の過ちを誠実に見つめる勇気が出ず、少し逃げ回っています。

 

カウンセラーから、この怒りとコントロールのパターンについて、家族関係の中で母親が怒りによってコントロールするということの成功を目の当たりにしているため、私自身の中でも成功体験としての認識が働いているのではないかという指摘を幾度となく受けています。

 

それが持って生まれたものなのか、成長の過程で築かれたものかはわかりませんが、母は気に入らないこと、自分の予定が狂うこと、家族(私や父)が母の思うとおりにならないと、声のボリュームが一気に上がって罵倒となり、怒り狂います。

 

あるいは、怒りを出せない場では、不機嫌になり、自分の怒りや不機嫌さを理解しなさい、理解するのが当然だと相手に押し付けてコントロールしていきます。

 

そして、その後、何事もなかったかのようにケロッとしていることも多くあり、周りは振り回されますし、母のことがよくわからなくて安心していられません。

 

私は母と一緒に住んでいた頃、その怒りの時間や声の大きさが本当に嫌で逃げ出したくて仕方がなかったのですが、いつの間にかそれが普通になってしまっていたのでしょう。

 

自分の衝動的な怒りの際の振る舞いを振り返ると、嫌だと思っていたはずなのに、いつもいつも色んなことに不満を感じ、不機嫌になり、何らかの形で外側の他者に怒りをぶつけてしまってきました。

 

怒りを表に出すことが普通になってしまっていました。

 

自分の心の中のどこかで、その知覚が正しいか正しくないかはさておき、理不尽だと感じたり、不利益を被っていると自動的に判断した瞬間に、怒りが沸点までいきますし、自分の正当性を示さなくては、示すことは生存に必要なこと、それが当然となっている自分にようやく気づき、絶望を感じています。

 

30歳も過ぎ、こんな年齢になってようやく、怒りを他者に表現してしまうことは如何なる時でも社会人としてあり得ないことであり、一度それをやってしまうと信頼は失墜して回復は難しいということを身をもってようやく学んでいます。

 

会社の中で、現在の所長が最も大切にしていること、体現していることが、空気を壊さないこと、どんな不測の事態が起こっても穏やかさの中にいること(いるように振舞うこと)であり、それを見るにつけ、人間は穏やかさや安定性のある人に安心感や信頼を覚えるものなのだ・・・と苦しい気持ちでいっぱいです。

 

※怒りを感じてはいけないということではありません。湧いてくるものや起こっている感情は抑え込むのでなく認めて解放していくことは必要ですが、それを表に表現してよいかどうかというのは別問題ということです。表に表現することを止められない、コントロールできないことに問題を感じています。

 

感情の乱れが激しく、怒りを力ずくや思考でコントロールしようと思っても失敗に終わるばかり・・・。

 

唯一、頓服の薬で、怒りが頂点→ちょっとした刺激で再び頂点→更に別の刺激で頂点という短時間での最悪なループは今のところ免れていますが、自分が選択しているパターン、ビリーフというものを見つめない限りはここから抜け出すことはできません。

 

パターンやビリーフは、両親との関係性で築かれたり、両親のものを知らず知らずに受け継いでしまっていたりします。

 

そこを見つめるしか今の私には手段がないようです。