心の治療中

真の問題は何かを見つめるための覚書

衝動的な怒りの表現は破壊につながる

資格更新も兼ね、先日、アンガーマネジメントの研修に参加しました。

 

アンガーマネジメントとは直接関係がないのですが、講義の中で、印象に残ったことが二つありました。

 

一つは、怒りの性質として、怒りの表現によりすっきり感が得られるという意見がでたのですが、それは決してメリットではありませんと強めに講師から指摘が入ったことです。

 

怒りを(衝動的に)表現して自分はすっきり感を得られるかもしれませんが、怒りをぶつけられた方は傷つきますし、周りからの信頼も失ってしまいます。

 

怒りの表現をメリットだと体が覚えてしまうと、その快感を何度も繰り返すことにもなってしまいます。

 

この言葉は私にとっても耳の痛い言葉でした。

 

親子関係の問題を入口にカウンセリングを受け始めた頃、抑え込みすぎて気づくことさえもなかった感情や思いに気づいて認めていくという練習をしていました。

 

その過程で、母親に対しての怒りをもっていても罪悪感を持つ必要はないということや、人の性質として怒りの感情は誰しもが持っているということをカウンセラーと一緒に見て認めるという作業も行ってきたのですが、いつの間にか、自分の正当性を主張する手段と混同して怒りを表現するモンスターになってしまったように感じます。

 

身体中が震えるほどの怒りを感じたり怒ったとき、ある種の麻痺が起こり、頭の中に冷たくて心地よいものが流れゆく感覚を何度か感じたこともあり、怒りの表現が、自分が正しいということの証明手段だったり、何かをコントロールできるという手段になり得るという錯覚を起こし、成功体験として、怒りのサイクルはどんどん短くひどくなっていきました。

 

大切な人との関係性を破壊しきるまで、私の場合は抑えることができませんでしたし、その錯覚を疑ってみようとすることもできませんでした。

 

現在は、どんなに不測の事態が起こっても、どんなに自分が正しいように思えても、どこかで自分が物事や他者や自分に対して「こうあるべき」に陥っていないか、その怒りは本当かと知覚を疑うというトレーニングに本腰を入れています。

 

そのトレーニングを本当にしていきたいと心が突き動かされたのは、大切な関係性を破壊しきってしまった事態と、もうひとつは会社の所長の在り方を目の当たりにしているからです。

 

大手企業の所長で50人以上を抱えてともなると、イライラしたり、怒ってコントロールしたりというやり方の方が圧倒的に多いと思いますが、所長は決して怒りを出すことなく、根気強く一人一人に合わせた話をしながら指導していきます。

 

どんな話でも無下にせず、根気よく聞いています。

 

結果として、働く意欲が出てきたり、至らないところは直さなければと素直に受け入れたり、所長と面談した後の社員の顔が輝いていたりと、決して怒ることで人が動いているわけではないということ、怒らなくても伝わるということを肌で感じ、本当にこの怒りのパターンからは抜けたいと強く強く願っています。

 

この研修で強く指摘があった通り、一時的に怒りの表現で何かを変えたり主張が通ったりしても、怒りの表現や怒りでコントロールすることは、とてもとても損なこととお伝えしたいです。

 

怒りが湧くことは本能であり、怒りそのものはよくも悪くもありません。

 

また、一度湧いて形づくられたものをいくら否定しても無視してもどうしようもありません。 

 

湧いたものを成仏させるには外側へ向けた表現によってではなく、自分自身がその怒りに耳を傾けて認めてあげること、その怒りは本当はどんなことを伝えたいのかを紐解いて成仏させてあげることが必要なのです。

 

(次へつづく)

 

追記1:

とはいえ、怒りのエネルギーが収まらないことというのもあります。

そんなときは物やイメージを使って、怒りのエネルギーをぬくという方法を使ったりもします。

水風船を怒りに見立てて公園でひたすらぶつけたり、ロケットをイメージして怒りを飛ばしたり、ひたすら歩いたり、などなど。

 

追記2:

私は、不安感が強かったり、突発的怒りや逆にプチ鬱状態などで気持ちが安定しないことも多く、現在は漢方と西洋薬の頓服を一時的に使用しています。

気分変調は、仕事となればうまくコントロールしたり、支障なく仕事できますが、休日や退社後に何もできないというような後からの反動がひどかったりなのです。

その意味で、薬は筋弛緩作用もあり、上手に使えば嵐のような自分を頑張ってコントロールするよりも楽だなと感じる部分もありますが、ふらつきがひどかったり、長く飲むのは危険ということも感じています。

自分がどんな性質や特徴や生き辛さを抱えていても、その苦しみが足かせとならない、つまりは自由でいられることを模索していますし、そうしたことにつながるカウンセリングの場があるといいなと思っています。